清教徒革命へ1-最も賢明で愚かな王の死

1621年英王ジェームズ1世は、議会を招集した。議案は領地を追い出されて流浪の身となった娘婿プファルツ選定候フリードリヒ5世の救援資金を得るためであった。しかしそんなことを議会がOKするわけがない。ジェームス1世はますます議会への不信をつのらせた。

とれではと、なんとスペインに接近し、フェリペ3世の娘マリアと王太子チャールスとの結婚を図り、スペインから娘の安全を確保してもらおうとした。が、議会は賛成するわけがない。23年バッキンガム公の勧めで王太子チャールス自らスペインに行き交渉したが、引き延ばされた揚句、その気がまるでないのに気づいて憤然と帰国した。

反スペインとなったバッキンガム公は、今度はフランスと同盟を組むと縁談をもちかけたが、相手は達人リシュリューである。これも弱みをつかれて、ルイ13世妹マリアとの縁談はまとまったが、王妃はカトリックのままで子供をカトリックに教育、英国のカトリック寛容を呑まされた。

ジェームズは外交的にはどっちつかずの姿勢をとり、おまけに王妃アンの浪費癖を止められず、「最も賢明にして愚かな王」と陰口をたたかれ、1625年3月27日に崩御した。そのつけは息子チャールス1世で爆発する。

下は母メアリ・スチュアートと少年ジェームズ1世

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。