日本宣教34-官兵衛キリシタンとして死す

関ヶ原の直後から、家康はイエズス会とも会っている。このときの面会者はホアン・ロドリゲス、通称ツヅという会士で、ツヅは通訳という意味。彼は16歳で来日し、白杵の習練院で教育を受け、ポルトガル語より日本語のほうが達者だった。後に日本語辞典などを編することになる。

ともかく家康は、イエズス会に3か所の会宅を与え、ツヅを自分の通商代理人とした。さらに1603年にはロドリゲスにも長崎自治に加わるようにした。1602年より、香料諸島をめぐるオランダとポルトガルの戦争が始まっており、スペインとの通商ルートを握っておかねばならない。

04年、キリシタン大名黒田如水が伏見で亡くなった。黒田家は、関ヶ原以後もキリシタンを受け入れ、特に弟の直之は熱心で、03年博多に教会を建てた。宣教師資料によれば臨終の際告解の望みは叶わなかったが、十字架とホスチアはもらったようだ。葬儀は教会で盛大に行われ、彼はキリシタンとして亡くなったらしい。

1607年には、日本準管区長フランシスコ・パシオが駿府の家康を訪ね、歓待を受け、さらに二代目将軍秀忠にも江戸で謁見した。パシオは中国、九州を歴訪し、キリスト教復活とも思われた。しかし一方、キリシタン大名であった大村藩では喜前が加藤清正の影響で日蓮宗に改宗し、キリシタンを追放した。

下は「軍師官兵衛ラストシーン」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。