日本宣教26-日本軍朝鮮から撤退

秀吉の死は、日本軍のみならず朝鮮軍も知るところとなった。小西行長は釜山より最も遠い順天城に孤立した。小西は秀吉の懲罰として出陣したが、この戦争の意義を失い、朝鮮人の味方もし、特に加藤清正の情報を流していたようだ。しかし名将李 瞬臣が海上封鎖をして撤退を阻む。

これを知った島津義弘らは水軍を組織して救援にかけつけ、1598年12月16日、露梁海戦が勃発、李 瞬臣はここに命を落とした。そしてその戦闘の間に小西軍は脱出に成功した。しかし慶長の役は凄惨を極め、秀吉は朝鮮人の鼻を削いで日本に送らせた。それは京都に「耳塚」として残っている。

またこの戦争は朝鮮人にとって人攫い戦争でもあった。朝鮮から陶工が連れてこられて日本に陶器が伝えられたのは有名だが、それ以外にも女性などが日本に連れてこられた。そこから西洋に売られた者も居るとのこと。秀吉は、日本人奴隷をキリスト教追放の名目にしていたが何の事はない、日本もやっていた。

ともあれ日本軍は帰国したが、この朝鮮戦争の遺恨が豊臣家を分裂させる。秀吉の死後程なくアジア巡察使ヴァリニャーノは日本を訪れ、石田三成に会い、ロドリゲスを家康と会見させた。家康は、すぐにではないが、キリスト教禁止令はゆるやかになるだろうと述べたらしい。

下は耳塚で日韓合同で行われた慰霊祭

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。