日本宣教25-日本26聖人の殉教

秀吉の宣教師追放令以後も実はキリシタンは増えていた。オルガンティーノによれば92年までの5年間で4万人の信者が増えたという。そしてポルトガルファッションが巷に流行した。派手な風体の「かぶきもの」の時代だった。ところが宣教師達は穏便にと、昼間は和服を着たりしたらしい。

ところが新たに入ってきたフランシスコ会宣教師は、日本政府の言う通りにするイエズス会を臆病と思った。イエズス会の独占だった布教許可をとり、1594年当時関白だった豊臣秀次にとりいり、京都に教会をつくり、平然と修道士服で闊歩した。

しかし95年秀次は失脚して自害、96年10月16日メキシコ行きのサン・フェリペ号が土佐で座礁する事件が起こる。この取調べにあたった増田長盛は、ペルーなどの実態を掴み、スペインは宣教師を先兵として国を植民地化している、と秀吉に告げたという。かねてより、自分に平服しないフランシスコ会を嫌っていた秀吉は、京都の宣教師と信徒24人を捕えさせた。

24人は左耳を落とされ、付き添いの2人を含む26人が、97年2月5日、長崎まで歩かされて処刑された。12歳のルドビコ茨木は、改宗したら助命すると言われても拒んだ。パウロ三木は十字架上で信仰告白し、処刑した者を許すと言った。このニュースは世界各地に知らされ、1862年彼らは列聖された。

下は長崎の日本26聖人殉教記念碑の前で祈る教皇フランシスコ

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。