日本宣教12-高山右近紙衣で信長の前へ

好事魔多し。1578年10月、摂津守荒木村重が突然信長に叛旗を翻した。原因は本願寺との内通とも、内通を疑われた結果とも言われている。臣下であった高山親子は選択を迫られた。右近の息子と妹は村重に人質に出し、逆らうと人質の命が危なく、説得に来た黒田孝高は幽閉された。

信長は巡察使オルガンチノに高山親子を説得させたが、業を煮やして、信長に味方しなければ宣教師やキリシタンを禁教として抹殺する、と言いだしたのだ。高山親子の意見も割れ、息子右近は信長恭順派だが、父図書は主戦派に傾き、開城すればキリシタンの癖に切腹すると言いだした。

懊悩した右近は、11月10日オルガンチノと城を脱出し、髷を切り、紙衣一枚で信長の前に出た。髷を切ることは武士を捨てることであり、彼は殉教の覚悟だったろう。信長は右近を切らず、信長は高槻城に入城した。この動きは父に全く秘密であり、知った父は人質の代わりに有岡城に行った。

村重は、その後も有岡城に籠城したが、援軍が来ず翌79年9月城を脱出した。大将が居ない有岡城は、投降が続出し、11月9日に最終的に陥落した。しかし村重の一族は悉く、信長によって処刑された。なお大河ドラマ「軍師官兵衛」では妻のだしは、キリシタンと描かれているが、違うようだ。

下は大河ドラマ「軍師官兵衛」より斬られる寸前で信長の刀が止まるシーン

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。