日本宣教5-日本キリスト教中心地河内

日本に入ったキリスト教は南蛮貿易とセットで九州で普及していった。そして1559年、ガスパル・ヴィレラ神父が遂に首都京都に入る。しかし南蛮貿易のメリットがない京都では、布教は難渋を極め、「乞食小屋」のような粗末な小屋で、民衆に説教をしたが、迫害や追放の憂き目にあった。

翌60年、京都で好意的な高僧の斡旋で、将軍足利義輝に謁見し、砂時計を献上して布教の許可を得た。実際宣教師はそんなものしか持っていなかった。また畿内を実質支配していた三好長慶も布教許可を与えた。長慶は南朝や楠正成を復権させており、将軍との対抗において、従来にない宗教勢力を必要としていた。

しかし長慶の京都代官である松永久秀は、熱心な法華経信者で、キリスト教を排斥したかった。そこで結城忠正と清原枝賢という当時最高の知識人を選び、63年キリスト教を詰問したが、盲目の日本人説教師ロレンソ了斎にかえって説得され改宗してしまう。この仕掛け人高山図書も改宗した。

60年に桶狭間の戦いで今川を破った織田信長は、美濃攻略を進めていた。戦国を経て古い権威は廃れ、新しい時代の到来が近づき、知識人を中心に従来にない新しい思想が希求されていた。

下は当時の河内キリシタン施設

0コメント

  • 1000 / 1000

キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。