自由なブルゴーニュで育った父カール5世はエラスムスの影響を受け、新教も理解し寛容だった。しかしスペインで育った息子フェリペはというとガチガチのカトリックなのである。実際もはや両派は分かれてしまい、勢力争いの時代に入ったという背景があったろう。
異端審問所はもともとキリスト教による統一が遅れ、ユダヤ人やイスラムが居たという事情でつくられたものである。ところが宗派対立の時代になると新教の監視と取締りにも拡大された。そして1559年事件は起こったのだ。
スペインにルター派思想を持ちこんだのはイタリア人のデ・セソだが、当時の首都バリャドリッドでドメニコ会士を中心に広まった。それがまあカール5世お気に入りの聴罪師だったカサージャ博士が加わり、その母の家で秘密集会を開いていたのである。
このグループは結局異端審問所に知られて一網打尽にされ、約60人のうち20数人は火刑となった。拷問のため捨てると誓った博士は、絞首刑となった。首謀者デ・ソサは火刑となったが、その場には国王隣席で大勢の民衆が詰めかけた。その場で国王フェリペ2世は「たとえ我が子であろうと異端には火刑の薪を積む」と言ったと伝えられる。
下はマヨール広場の公開異端裁判
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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