嵐はオリエントからも吹いていた。1514年、スルタンとなったセリム1世は、シーア派イランのサファビー朝を攻め、チャルディラーンの戦いに大量の火砲をつぎ込んで勝利、首都タブリーズまで進んで多くの財宝やイラン職人を連れ去った。サファビーのシャー、超イケメンイスマイールは妻まで連れ去られて、酒びたりになった。
セリム1世はサファビー朝との交易を禁止したが、マムルーク朝はイランの絹を使っていた。そこでいよいよマムルークへの侵攻を決意する。マムルーク朝は、ポルトガルがアフリカ沿岸に支配を伸ばし、勢力が衰えていた。
16年、セリム1世はシリアに入り、マムルーク朝とアレッポ北方のマンジュ・ダービクの戦いに800門の火砲をつぎ込み大勝利を収め、翌年リダニアの戦いで、カイロを征服し、マムルーク朝を滅亡させた。カイロのセリムの前にメッカとメディナの鍵が届けられ、この後メッカの式典はオスマンが行い、スンナ派守護者として教徒に認められることになる。
マムルーク朝にはアッバース朝のカリフの子孫が居り、セリムはカリフをイスタンブールに連れて行った。セリムはカリフの継承を許さず軟禁状態にした。43年に最後のカリフが死んだ後は、オスマンがスンナ派正統代表者として、オスマンのスルタンがカリフを兼ねるという認識が広まってゆく。
下はマムルークを攻めるセリム1世
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
0コメント