春の嵐1-仏王シャルル8世イタリア侵攻

1493年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世が77歳で崩御した。愚鈍といわれながらも、息子のマクシミリアンの後ろ盾になり、結局領土を広げていた。息子マックスは帝国議会の推薦を受けたものの、晴れの戴冠が敵対しているヴェネツィアに阻止されてできなかった。ローマでの戴冠は彼の生涯の念願となってゆく。

そしてこの年、マックスは再婚した。それがなんともミラノの僭主ルドヴィコの娘である。家柄としては不釣り合いも甚だしいが、はっきり言って金目当てであった。金は皇帝よりも強い時代となった。しかしロドヴィコは、皇帝と縁戚になってこともあろうにそのライバルのフランス王シャルル8世にイタリア侵攻を誘っていたのである。

そしてフランスには、アレクサンデル6世に教皇選で負けたロヴェレ枢機卿も居てイタリア侵入を促した。フランスは、ルイ9世の弟シャルル・ダンジューから1435年までナポリ王となっていた。ブルターニュを手に入れたシャルル8世はこのときまだ23歳、野望に燃えても不思議はない。

仏王はなんと、ナポリ侵攻の口実として、シャルル・ダンジューのように、ナポリからオスマンを攻撃すると宣言した。翌94年8月、フランス軍は4万人の華麗なる軍を立ててイタリアに侵入。ミラノは城を開けて歓迎したが、ナポリと同盟関係にあったフィレンツェは拒否した。しかしフランス軍が迫ると、ピエロ・デ・メディチは一転、フランス軍に鍵を引き渡してしまい、市民によって追放されてしまった。ルドヴィコの思惑通り、フィレンツェのメディチ支配が終わった。

下はシャルル8世のフィレンツェ入城

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。