1480年に結婚したコロンブスはいよいよ西行き航海を夢見、84年ポルトガル王家に提案した。しかしアフリカ周回にこだわるポルトガルからいい返事はきけない。妻が亡くなり、彼は困窮してポルトガルからスペインに向かった。スペイン南部のパロスの近くの修道院に息子を預けたが、この修道院の縁で、セビリアの神父で天文学者だったマラチェナが彼の案を認めた。
マラチェナは、あちこちコロンブスを紹介し、メディナ・セリ伯爵が、この話をイザベル女王に持ち込むのである。86年5月1日、コロンブスは女王に謁見し、この案について調査委員会が設置された。ポルトガルに乗り遅れまいとするスペインだが、当面の問題はレコンキスタの完遂であり、金もそちらにつぎ込んで借金だらけである。
なかなか結論の出ないスペインに苛立ち、彼はまたリスボンに舞い戻ってポルトガルを頼ろうとした。しかし87年8月にリスボンを出発したバルトロメウ・ディアスの率いるポルトガル艦隊は、88年5月、ついにアフリカ最南端付近の喜望峰に到達した。そして12月にリスボンに帰国し、王に発見の報告を行った。この命名はそれに喜んだ王がつけたものである。
ポルトガルがコロンブスの案に乗る必要性は全くなくなった。87年マラガが陥落し、スペインもレコンキスタ完遂目前、89年に彼は女王と再謁見したが首を縦に振ってくれない。90年、スペインの委員会も否定的結論に達した。コロンブスは失望し、これをフランスに持っていこうと息子を連れに修道院を訪れると、院長は女王を説得して、当面の金をやって待たせることにした。
下はケープタウンのディアスの記念碑
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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