1481年、メフメト2世の急逝を受けて2人の王子、バヤズィトとジェムの後継者争いが生じた。大宰相カラマーニは、ジェムをスルタンにしたいと密使を送ったがバヤズィト派に殺され、大宰相さえ暗殺されてしまった。そしていち早く宮殿に到着したバヤズィトが、バヤズィト2世として即位を宣言、ジェムは自派の兵を率いて戦ったが敗北して逃走した。
ジェムはその後数奇な運命を辿る。同じイスラムのマムルーク朝を頼ってカイロに行って、その力でまたも出兵しコンヤを包囲するが失敗。その後、ロードス島の聖ヨハネ騎士団に招かれ、フランスへ渡った。84年、教皇インノケンティウス8世は、彼を口実に十字軍を結成しようとローマに引き取って、各国に呼びかけたがのってこない。
そこへスルタンバヤズィト2世から取引をもちかけられた。ジェムを返さなければ4万ダカットを毎年払うと言われたのだ。当時のヴァチカンはどんどんバブリーになり、芸術家のパトロンとなって華やかな教会を建設し、世俗の争いにも介入していた。前教皇のシクストゥス4世は有名なシスティーナ礼拝堂を建設するが、金銭と交換できる「贖宥状」いわゆる免罪符を発行していた。
インノケンティウス8世は、金銭解決で、ジェムを客として留め置き、あちこちへ連れ歩いた。またジェムを脅しとして使って、オスマンの侵攻をストップさせた。オスマンのバヤズィト2世は、内政固めを行い、イスラム学院が建立された。オスマンのイスラム化は、帝国がイスラム法に縛られることとなり、メフメト2世のような欧州文化の吸収がなくなった。
下はジェムを連れ回すインノケンティウス8世
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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