ダ・ヴィンチのミラノでの仕事は、宮廷イベントプロデューサーだった。自ら宮廷イベントのデザインや制作を指揮し、当日は楽師としてリラを奏で、出席者相手のトークも披露したらしい。僭主ロドヴィコは、その見事な弁論に飽きることがなかった、とヴァザーリが書いている。フィレンツェと違って、ミラノでこういう人材は貴重だった。
彼の万能っぷりはアカデミーがないミラノで開花したといえる。ここには豊かな東洋からの交易品があり、建築が盛んで、ダヴィンチはここでさまざまなものを見てデッサンや手記を書き、自分の考えを深めていった。それは絵画だけでなく、人体や空気、火、水の動き、自然の万物に及び、発明にまで至り、1481年にマルテサーナ運河にも関わっている。
1483年、無原罪懐胎教徒会から「聖母画」を依頼され、初期作「岩窟の聖母」を制作した。この絵は、聖母がイエスを産んだ洞窟の絵であるが、聖書にない洗礼者ヨハネとその母エリザベートも居る。一見してわかる特徴は背後の光景である。高い霧に包まれた峰々があり、よく見ると洞窟の外まで水に浸されていて、洞窟には地衣類が生えている。
ダヴィンチは、「乾いた大地の生命液として貢献するものは水である」と手記に書く。イエスは水で洗礼を受けた。旧約時代からずっと流れてきた神の息吹が、この洞窟ではじめて人間として生まれたという神秘を描いたのだろう。聖書を描くのはこれまでもあったが、自己の思想を描くという意味では新しい画家が出たというべきだろう。
下はルーブル版の「岩窟の聖母」と祭壇画として祀られていた左右の天使(協業者作)と共に
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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