1482年、ダ・ヴィンチはミラノに出て行った。この都市もフィレンツェ以上に陰謀渦巻く街で、1450年からスフォルッツァ家が権力を握り、66年に当主フランチェスコの死後、息子達の権力争いと暗殺が相次ぎ、結局残った幼い息子の摂政となったルドヴィコが潜主となっていた。
ヴァザーリによれば、ルドヴィコにフィレンツェから竪琴を贈るときに、ダ・ヴィンチの発明した竪琴を持っていき、彼も行ったということだ。そしてここで街のドンのルドヴィコにプレゼンの手紙を書く。自分ができるものは①戦争用の橋②戦争用舟艇③城塞の攻撃兵器④小型大砲⑤戦争用道路⑥戦車⑦軽火器⑧攻撃新兵器⑨海上兵器⑩建築、騎馬彫刻や絵画は付け足し。
ダ・ヴィンチはなんと軍事技術者として自分を売り込んでいるのだ。彼は単なる絵描きではない。絵画も自分の研開発の一つである。中世からの職人はその仕事のプロだったが、レオナルドはそれを越えた新しい人種といえる。
しかしともかく、ルドヴィコは、スフォルッツァ家の栄光をもたらしたフランツェスコの騎馬像を制作するプロジェクトがあり、ダ・ヴィンチがそれに関わることとなるのである。同時に初期の傑作「岩窟の聖母」の制作をすることになる。
下はミラノのダ・ヴィンチ像
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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