メフメト2世は、ボスポラス海峡の監視を強化し、黒海をオスマンの海にしてしまった。海軍力を強化するオスマンに対し、1471年に選出された教皇シクトゥス4世は、ヴェネツィアと同盟して大艦隊を組織し、スミルナとアンタリアを攻撃、しかしオスマンに打撃を与えることはできなかった。結局黄金都市ヴェネツィアも資金不足で、オスマンと手打ちをすることとなった。
西洋美術の好きなメフメト2世は79年、ヴァネツィアに画家を要請し、ベッリーニが派遣され、スルタンの肖像画などを制作、その後芸術家が続々と派遣され、イスタンブールの復興やオスマン文化に貢献した。
しかし80年5月、メフメト2世は、聖ヨハネ騎士団の占拠するロードス島攻撃を行った。メシフ・パシャの率いる150隻以上の艦隊がロードス島を包囲、上陸して凄まじい砲撃を行った。しかし島中を堅固な要塞と化していたロードス島攻略は困難を極め、5週間の攻防の後、オスマンは城内に突入したが、パシャが略奪を禁止したため、ヤル気を失して反撃を浴び、攻略は失敗した。
この時のキリスト教側の記録には、空に金の十字架と盾と槍を持った聖母の幻影が現れ、オスマン軍をパニックに陥らせた、と書かれている。その翌81年5月、アナトリア遠征に出発したメフメト2世は、その途上で49歳で急逝した。教皇シクトゥス4世は、政治的にはパッツィ事件を起こすなどイタリアに混乱をもたらしたが、自分の名を記したシスティナ礼拝堂を建設し、ローマをルネサンス文化の中心にしようとする。
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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