帝国対王国4-ハプスブルクは縁談で参戦

神聖ローマ皇帝からブルゴーニュへの用事は戦争ではなく縁談だった。皇帝フリードリヒ3世、43歳になってようやく子を授かった。この子こそハプスブルクに栄光をもたらすマクシミリアン1世であった。父といえば弟にウィーンを乗っ取られたり、ハンガリー貴族に反乱されたり苦難の連続。合戦間際に縁談とはKYもいいとこだが、このエピソードから後に「幸福なオーストリアよ、汝は結婚せよ」という有名な格言がつくられることになる。

ブルゴーニュ家シャルルは動いた。子供は一人娘のマリーしかおらず、どの国も縁談を求めていた。しかしシャルルはなんと縁戚になって次期皇帝を狙ったのだ。1473年10月、公と皇帝は古都トリーアで会見した。このとき公は相手を威圧するため3000人の胸甲騎兵、5000人の軽騎兵、6000人の随行員を連れ、ダイヤを付けまくった衣装を着ていったらしい。

贅をつくしまくった宴会で、公が切りだしたのは「ローマ王にしろ」。つまり次期皇帝にしろ、ということだった。押しのシャルルに対して粘りのフリードリヒ、推挙は自分の一存でいかず、選帝侯の承認を得なければならないが自分にその自信がない、と。そして縁談さえまとまると、さっさと11月24日、夜半にトンズラをしてしまった。

そこで、公は会談の結果得たヘルレからドイツ領に向かって軍を進め、74年デュッセルドルフの対岸のノイスに大軍を押しだした。この策はまずく、侵攻されることを怖れたアルザス、スイスの領主達が「低地連合」を組み、ブルゴーニュと戦い出したのだ。それにシャルルが気を取られるうちに、あちこちに巣をめぐらした蜘蛛、ルイ11世がついに動く。

下はカール5世の時代でしょうか?ハプスブルクの婚姻領土を著した絵

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。