聖都陥落8-対オスマン十字軍出航せず

コンスタンチノープル陥落は世が世なら直ちにヨーロッパの反撃を招くものだったろう。1458年に選出された教皇ピウス2世は、翌年マントヴァ教会会議で、対オスマン十字軍を提唱した。しかしその反応は結構冷淡であった。英仏は百年戦争がようやく終わり、英国たるや薔薇戦争に突入。教皇は自分がかつて宰相を務めた皇帝フリードリヒ3世に期待したが全くヤル気なし。

実際、フィレンツェ公会議で東西教会の統一が流れたあとは、聖職者達も陥落は神の裁きと思っていたようだ、なんたるちゃ。彼は有能な人物で、各国に働きかけたが効果はあがらず。そこで教皇は、スルタンメフメト2世に手紙を書き、和平を提案した。しかしスルタンの答えはなく、オスマンはさらに侵攻を開始した。

61年、教皇は信仰心の高揚を期待して、イタリアで人気の高いシエナのカタリナを列聖、翌62年にはコンスタンチノープルから持ってこられた使徒聖アンデレの頭蓋骨を仰いだ。そのかいあったかどうか、ようやくヴェネツィアが海軍の派遣に応じ、ブルゴーニュ公国が十字軍に応じると回答をしてきた。教皇は自ら十字軍の先頭に立つことを決意し、64年春に出発すると決めた。

64年6月、教皇は病身を押して出航予定のアンコーナに向かった、もはや帰らぬ旅を覚悟して。その頃ブルゴーニュは独仏との情勢が緊迫し、それどころではなくなった。8月、ようやくヴェネツィア艦隊が姿を現した。が、湾の外に碇を降ろして止まった。実はそのときヴェネツィアにはオスマンの使者が来ていたのだ。教皇は、十字軍の出航を夢見ながら息をひきとった。オスマン十字軍は結局出発することはなかった。

下はアンコーナに来訪した教皇ピウス2世

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。