北の十字軍2-タンネンベルクの戦いの遺恨

ポーランド・リトアニア連合は宣戦布告を先刻承知。連合軍を率いてチュートン騎士団の本拠マリエンブルクに進撃した。チュートンはあわてて帰還しようとするが、連合軍は裏をかいてドブロブノ要塞を陥落させた。チュートンは会戦に誘い出すため、近くのタンネンベルクに陣地を築いた、1410年7月10日、歴史に残る「タンネンベルクの戦い」が始まる。

チュートンの兵力は約2万人あまり、連合軍は3万~5万、数では勝る連合軍だが、チュートンは大砲などの装備を備えていた。7月14日両軍は接近したが、相手に手を出させようと正午まで待った。先に仕掛けたのはリトアニア公の猛将ヴィタウタス、しかしやはり実力はチュートンで連合軍は後退しはじめる。

ところが、ポーランド王が乗り出して前線で騎士と一騎打ちとなった。両軍これを見守り、戦闘の流れがとぎれてしまった。そこへヴィタウタスが背後を突き、予備兵も全軍投入したのでチュートンは総崩れとなり、総長以下12人の管区長が死亡した。退却中にも死者を出し1万8千人と記録されている。チュートンの完敗であった。

騎士団はマリエンブルクは防衛し、和平条約で領土は保全されたが、その後ポーランドに圧迫され、十字軍どころではなくなった。19世紀、ドイツ民族主義が勃興し、その歴史学でこの戦いはスラブのドイツ民族への圧迫と叙述され、第一次大戦1914年のドイツとロシアの戦いは同じ名称の雪辱戦となった。1939年第二次大戦でドイツがポーランドに侵攻して真っ先に行ったことはこの記念碑を破壊することだった。

下はヤン・マティコ作「タンネンベルクの戦い」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。