聖都陥落1-ムラト1世ビザンティン侵食

1360年オルハンが逝去し、その子ムラト1世がオスマンを継いだ。彼の位もまだ「ベイ(君候)」であった。彼はペストにやられたビザンティンのヨーロッパ側の古都アドリアノープルを征服した。ムラトはここを首都とし、現在のエディルネと名付けた。この頃バルカン半島にはセルビア族、クロアチア族のスラブ民族が進出し、割拠状態となっていた。

ムラトはさらにニコポリスを占領、オスマンの進出に教皇ウルバヌス5世は十字軍を呼び掛け、バルカン連合軍が結成されたが、63年マリッツァ川の戦いに敗北した。ムラトはさらにマケドニアを征服し、71年にブルガリアを従属させた。

ムラト1世は宰相チャンダルル・カラ・ハリルに軍事権も与え、複数となった宰相の内で、大宰相の位を設けた。この大宰相が行ったのが奴隷軍人だった。彼は、戦争で得た捕虜をそのまま奴隷軍人として使い、常備軍をつくった。これが後に怖れられるイェニチェリである。そしてこれはキリスト教徒の少年を改宗して育成するようになった。

ムラトは、1387年4年の包囲の後にペロポネソス半島のテッサロニキを陥落させ、ビザンティンを臣従させた。しかし同年、ボスニアに侵入した軍がプロシュニクの戦いで大敗。バルカン連合軍の勢いが増し、89年にコソボの戦いで両軍は激突した。ムラトは戦争には勝利したが、戦いのさなかにセルビア貴族ミロシュ・オビリチによって殺害されて戦死した
下はアダム・ステファンビッチ作コソボの戦い。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。