聖都陥落2-バヤズィト、バルカン十字軍に勝利

1389年のコソボの戦いで戦死したムラト1世の後を即息子のバヤズィト1世が継いで即位した。が、彼は直ちに兄弟達を処刑、このあとオスマンでは兄弟殺しが慣例化し、帝個人の独裁色を強めることとなった。彼は「電光」と異名をとるほどの戦さ上手で、反乱を抑え、バルカン、アナトリアを制圧し、コンスタンチノープルを包囲した。

これで危機を感じたのはハンガリー王となっていたカール4世の次男ジギスムントである。彼は当時皇帝を継いでいた兄ヴェンツェルと、まだ分裂していたローマ、アヴィニョン両教皇に訴え、対オスマン十字軍の結成に成功した。フランスも兵を出し、ヴァルカン勢やマルタの聖ヨハネ騎士団も含め、総勢1万6千人ぐらいになったようだ。

オスマン軍は約2万人余り、十字軍はブルガリアのドナウ河畔の要衝ニコポリス要塞を包囲した。ところが軍は攻城兵器を持ってきておらず、それを待っているうちに士気は下がってしまった。オスマンは、コンスタンチノープル包囲を解きニコポリスに向かって進行。1396年9月26日、両軍は会戦した。

十字軍はやはり寄せ集め軍で、ハンガリー王とフランス軍が対立。先鋒に立ったフランス軍は騎馬突進で、オスマンの不正規兵を蹴散らした。しかしその後ろに立てられた杭に阻まれ、両側面から正規兵に包まれてしまい、分断されてピンチに陥った。ところがここでジギスムントが救援せずに撤退してしまった。オスマン兵に後ろから襲いかかれたハンガリー軍は大敗し、ジギスムントの威信は地に落ちた。バヤズィトはこの勝利で、カイロに居たカリフからイスラムのスルタンの位を正式に受け、オスマンの力は広く認められた。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。