1356年9月10日、英仏両軍はポアティエの近く、モーペルテュイ平原で激突した、英軍6千、仏軍3万人。英軍は先に森を背に布陣しており、うち3千人が長弓兵である。仏軍はクレシーの反省から歩兵を多くした。今回も仏軍の突撃から戦端が開かれ、同様に長弓兵が矢の雨を降らせた。特に弓兵は側面にまわり、馬を撃ったため、仏軍の突撃は壊滅した。
しかしさすがに、今回は長弓兵の矢が少なすぎた。このため仏軍が勢いを盛り返し、戦闘は白兵戦による混戦になっていった。が、ここで英軍は後ろの騎兵隊を活用した。迂回した騎兵は、仏軍の側面に突っ込み、仏軍を恐慌状態にしてしまった。黒太子の鮮やかな戦略だったが、実働はフランスのガスコーニュ騎兵、このため「南部の同胞に負けた」とフランス人は言った。
仏王ジャン2世は奮戦したが、敵に囲まれ降伏した。このとき王の立派な武具の奪い合いになったが、王は「君たち、朕の身柄をめぐって喧嘩するのはやめたまえ。朕は、君たちを皆、揃って金持ちにしてあげるくらいの大物なのだから」と言ったという、良い王伝説その1。仏王は堂々と白馬に跨って捕虜となり、イングランドへ行っても豪奢な館に住み、舞踏会も頻繁に行って、ロンドン生活を楽しんだそうだ。
だがフランスにとってはそんな悠長な話ではない。王の賠償金の調達は国を圧迫した。おまけにペストから立ち直っておらず、戦さが終わって解雇された傭兵は、盗賊集団となって各地を荒らしまわった。王といえば、ワインを送れとかいう手紙ばかりで、王太子シャルルは虚弱だった。
下はドラクロア作「ポアティエの戦い」@もちろんフランス寄り。右下の黒い甲冑がエドワード黒王子でしょうなあ
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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