ペスト襲来4-カール4世の対立王死す

ペストは1348年春にはもうヴェネツィアルートでオーストリア南部に到達し、農村を荒らしまわり、大被害をもたらした。それからアルプスの山岳地帯を通って6月29日ミュールドルフで最初の被害をもたらし、翌年バイエルン地方に入った。翌年にはシュトゥトガルト、アウグスブルクに入り、そこからマインツ、ケルンに交易路を通じて入った。

マインツでは49年と50年に6千人が亡くなり、ミュンスターでは1万1千人が亡くなったと記録されている。49年の復活祭にはフランクフルトに入り72日間で2千人以上が亡くなった。そして50年にはついに北のハンブルクまで達した。

別ルートとしてロンバルディアからスイス南部、さらに南フランス経由でスイス西部に入ったようだ。ジュネーブで1日60人が死亡したと記録されている。スイスと隣接するドイツのコンスタンツでも大量の死の記録が残っている。北部のバーゼルでは49年に1万4千人死亡したと記録されている。それからアルザス地方に入る。ストラスブールでは、毎日ひとつの教会で数人が死亡し、教会墓地が完全に埋まってしまった。

神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世は47年に崩御し、教皇に推戴されたカール4世が自動的に単独皇帝となっていた。しかしドイツ国内諸侯はまるで権威がなく教皇の権威だけの「坊主王」と笑われた。ところが対立王ギュンター・フォン・シュヴァルツブルクはペストで亡くなってしまったのである。カール4世は領地であるボヘミアで難を逃れた。

下はベルギーのトゥルネーのペストの状況

0コメント

  • 1000 / 1000

キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。