教皇庁捕囚9-教皇庁アヴィニョンへ移転

アナーニ事件で動いたのはフィリップ4世の腹心ギョーム・ド・ノガレである。彼はこの後も王の闇の部分をとりしきることとなる。王は彼に絶大な信頼を置いていたが、真相を知っていたのか騙されていたのか定かではない。ともかく次の教皇べネディクト11世は7カ月で急死したが、これもノガレによる毒殺の噂が出た。教皇不在期間は11カ月にのぼり、1305年にようやく決まったのが、なんと枢機卿でもないフランスはボルドーの大司教だった。

新教皇クレメンス5世は、なんとローマ教皇のくせにローマに入らない、リヨンで戴冠式を行った。そしてその後数年間、プロヴァンスやらガスコーニュなどの南フランスを放浪する。そしてようやく落ち着いた先が、アヴィニョンにあったドミニコ会修道院だった。ここに教皇庁を仮設してしまったのが現在のアヴィニョン教皇庁。ここに「教皇のバビロン捕囚」が始まり、以後70年で改築を重ね立派な姿となる。

クレメンス5世はフィリップ4世のロボットになり、ボニファティウス8世の詔勅を取り消し、アナーニ事件の被告も赦免してしまった。なんとまるでフィリップ4世はルイ9世ではなく、フリードリヒ2世の子孫のようではないか。実際彼はフリードリヒ2世の成功版といえる。

教皇を手に入れた仏王は、勇躍戦に乗り出す。フランドル軍をジーリクゼーの戦いでうち破る。フランドル伯ギー亡くなると多額の賠償金まで支払わせた。フィリップはさらにユダヤ人の資産を没収して追放し、さらに別の大口に手をつけるのだ。その背後でノガレが暗躍する。

下は堂々たるアヴィニョンの教皇庁

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。