教皇庁捕囚7-教皇を地獄に落としたダンテ

教皇ボニファティウス8世はフランスの教会課税の対策で今に残る「聖年」を企画し、ローマへの巡礼を活発にした。エルサレムを失った今、ローマと教皇こそ欧州の要と考えたが、王達はそう思わなかった。しかし彼の死を「ザマア」と思っただろう男がいる。詩聖ダンテである。

ダンテはもともと政治家になるつもりだったようだ。フィレンツェは他の北イタリア都市のように、教皇派と皇帝派に分かれて、1289年のカンパルディーノの戦いには24歳で教皇派騎士として参戦するほどの血気の高さである。ところが戦いに勝利を収めた教皇派は、その後教皇派と独立派に分かれてしまう。

ダンテは与党となった独立派の最高行政機関の統領3人のうちの一人であった。教皇ボニファティウスはフィレンツェに圧力をかけ、教皇の護衛のために100人の兵を出せと言った。独立派の統領はこれを拒否し、1301年特使としてヴァチカンに出張した。ところがその途中でクーデターが起こり、教皇派政権となってダンテは街を追放されてしまったのだ。

その後20年、ダンテは北イタリアを流浪することになり、そのときに現世の恨みつらみを格調高く謳いあげ、その試練を経て、自分は天国に救われるという大作「神曲」を書きあげるる。くだんの教皇ボニファティウス8世は、地獄編第19歌で、逆さまにされて穴に入れられて燃やされる予定にされた。詩によって教皇を地獄に落とせる、新時代が始まりつつあった。

下はウィリアム・ブレイク作「神曲地獄編」逆さまになってるのは教皇ニコラウス3世で、ボニファティウスはまだ死んでなかったので運命を言うことになった。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。