教皇庁捕囚1-十字軍後始末フィリップ4世

父王3世の崩御の後を継いで1285年、17歳で王位についたフィリップ4世は美男王と呼ばれる、ルイ9世からは孫。ほめ言葉と思いきや、日本で言えば「能面のよう」に無口で、よくわからないという皮肉もあるらしい。フランス王権を高めた名君だが、そのやり方は確かに能面のようにドライである。

彼も王の専制政治を強めたが、特徴は平民の大卒生を法律顧問として重用したとこだ。彼らは「王はその王国においては皇帝である」「王は欲するところは法が欲するところである」とかの、スコラ的標語をつくって、王権を強めたようだ。そしてその欲するところは領土拡張の戦争であった。

1292年、海上での船の小競り合いを口実にして、イングランドのエドワード1に謝罪を要求した。実は戦争はエドワードも望むところで、これに応じず、94年、仏王は英王のフランス領土の没収を宣告したが、待ってましたと、英王のほうが先制攻撃をかけた。しかし王弟ヴァロア伯シャルルが強く、95年全アキテーヌ領土を占領した。

次はフランドル。ここは毛織物生産で豊かだったが、イングランドの羊毛を使い、フランスに支配させたくない。1297年イングランドと結ぼうとしたフランドル伯に先制攻撃をかけ、有利のうちに休戦、娘を英王子と結婚させて動きを封じた。そして1300年にフランドル伯を捕えたが、抵抗が続き「金拍車の戦い」で敗北、結局このフランドル制圧の戦いを長年続けることになり、軍資金が問題となってきた。

下はニケーズ・ド・カイセル作「金拍車の戦い」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。