フランスに負けたエドワード1世だが、実はウェールズとスコットランドとの戦争も始めていた。この頃招集された議会は、その後イギリスのモデルとなるので「模範議会」と呼ばれるが、王の課税で揉めに揉めた。王はとにかく議会の要求のマグナ・カルタ憲章を確認したが、その後休会してしまう。
ウェールズへは1276年以降、4度の侵攻を行い、82年にウェールズ大公の敗北で、エドワードに屈した。ウェールズの諸侯は、「ウェールズで生まれ、英語を話さず、罪を犯したことのない者を大公にせよ」と要求した。さて84年4月、エドワードはこの城で生まれたばかりの息子を見せて「お前達の王だと言った」。これ以後王太子は「プリンス・オブ・ウェールズを称する。王はウェールズに大きな城を築き、何回かの反乱を撃退した。
スコットランドは95年にフランスとの同盟を結んでしまった。エドワードは96年に侵攻し、王を退位させ、王の戴冠に使ってきた「スクーンの石」を「エドワード証聖王の椅子」はめ込んでしまった。このため民衆はウィリアム・ウォレスをリーダーとして反乱を起こし、97年のスターリング・ブリッジの戦いで勝利した。
しかしウォレスは、98年のフォルカークの戦いに敗れ、ゲリラ闘争に移った。エドワードはスコットランド侵攻を行い、ついに1305年に臣下の裏切りで捕えられた。ウォレスは、首吊り、内臓抉り、4つ裂きの残虐刑で処刑され、胴体はイングランドとスコットランドの城で晒し者にされたが、これは民衆の怒りを呼び反乱を呼び起こしたしまった。
下はスクーンの石の入った椅子。戴冠式に使われ、スコットランドを尻に敷いてるとしてスコットランド人の怒りの的だったが、1996年に返還された。ちなみにお菓子のスコーンの語源だそうだ
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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