第4回十字軍15-大教皇、皇帝選挙にも介入

13世紀初頭はまさにインノケンティウス3世の時代といっていい。教皇がここまで皇帝に優位に立ったのは初めてのことだろう。それも十字軍の成果である。ハインリヒ6世はわずか31歳で崩御、息子はわずか3歳。帝位は教皇派と皇帝派が争う。ここで1201年、教皇は教皇派のオットーをドイツ王と認めて国王選挙に介入、ここまでやったのは史上初だろう。

ここでドイツは内乱に陥り、戦闘で勝利を重ねた皇帝派フィリップが有利となって、1206年フィリップがドイツ王につく。しかし彼は第4回十字軍で勝手なことをしたため、正式な戴冠ができない。フィリップとオットー、教皇の駆け引きが続くなかで、1207年フィリップが暗殺されてしまった。これには教皇の関与の説がある。しかし彼は強引だが卑怯なことはしないだろう。

フィリップの死後、1209年にオットーが正式にオットー4世としてドイツ王、皇帝の戴冠を遂行できた。しかし、そのためにドイツ諸侯と教皇にいろんな特権を約束してしまったので身動きがとれなくなった。1211年、オットーはシチリア王国を臣従させるために遠征する、しかしシチリアは実質教皇の後見と誓っていた。教皇は激怒し、オットーを破門する。

ドイツ国内ではオットーに味方のはずの聖職者まで敵にまわった。そしてその旗頭が、シチリアに居るはずのシチリア王フリードリヒ2世だった。教皇は、シチリアで、自分が手塩にかけて育てたフリードリヒ2を譲位させて、ドイツへ送り込んだのだった。しかしこの男は実は期待とは逆のローマ皇帝を崇拝するガイに育っていた。

下はドイツ王フィリップの暗殺

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。