「天の時、地の利、人の和」というが、サラディンは天運には恵まれている。伯父シールクーフ、エジプト王に続き、シリアのヌールッディーンも崩御してしまった。サラディンは簒奪者の汚名を着ることがなかったのだ。ある意味、天下が転がり込んだのは家康に似ている。無理にあてはめると、ザンギー=信長(破壊者)→ヌールッディーン=秀吉(建設者)→サラディン=家康(完成者)となるだろう。
ダマスカスでは、11歳の幼君サーリフが擁立されたが、秀吉亡きあとのように各地で次の覇権争いが現れた。十字軍側も動き出す。そこで後見人は、サーリフをアレッポに移し、サラディンをダマスカスに来るよう要請し、サラディンはわずか700騎を連れて、1174年10月末に、民衆の歓呼を受けてダマスカスに入城した。彼はサーリフのためと明言し、反乱の鎮圧に向かう。
アレッポでは反サラディンの勢力がサーリフを囲み、モスルの反乱軍やエルサレムと連携、そして暗殺教団を使い、サラディンの幕屋まで侵入した。このときサラディンは鎖かたびらで危うく一命を取り留めたと伝えられる。しかし翌年、エジプトからの援軍が到着すると、戦さはサラディンが優位となり、バグダードのカリフがサラディンの覇権を承認した。
そしてヌールッディーンの崩御した年は十字軍側でも、エルサレム王アモーリー1世が、37歳の若さで崩御した年でもあった。その後、いよいよ悲劇の王、ボードワン4世が13歳で即位するのである。
下はアサシンに襲われるサラディン
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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