ヌールッーディーンの命令はかなり性急になる。サラディンの忠誠を試していたのかもしれない。しかしサラディンは死にゆく若きカリフをそっとしてやりたい。どういうわけか礼拝で、アッバース朝のカリフのスンニ派カリフの名が唱えられたらしい。しかし民は何もなかったようだ。事実上、スンニ派への転換がなされ、1171年9月15日、カリフが崩御し、ファーティマ朝はここに幕を閉じた。
後世、ここからアイユーブ朝が始まったとされるが、サラディンは依然宰相のままである。そんなところへ父アイユーブがやってきた。彼はシリアのヌールッーディーンとの関係で重要な役割を果たした。10月、サラディンがシリア南部に侵攻してシャウバクを包囲、ヌールッーディーンも呼応しようとするとあっさり包囲を解いてしまった。ヌールッーディーンはサラディンを疑う。
サラディンがシリアに進出すれば、シリアと国境を接することとなる。それを嫌がってサラディンは十字軍を緩衝として利用するのではないか?ヌールッーディーンが、エジプトを侵攻するという噂が流れた。このとき、父は主戦論を退け、ヌールッーディーンに手紙を書くことを進言、事なきを得た。
サラディンのエジプト統治は、ファーティマ朝の残党との戦いと、ヌールッーディーンへの配慮の2正面だった。イエメンへの侵攻も行ったが、これは交易路の支配と共に、ヌッルーディーンのエジプト侵攻への備えもあったようだ。しかし1173年5月、そのヌールッーディーンが56歳で、ダマスカスで急に崩御してしまった。
下はアレッポに眠るヌッルーディーンの墓
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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