近代アジアの動乱12-西太后登場

1861年清皇帝咸豊帝が崩御した。その長子で6歳の同治帝が帝位についたが、彼の母こそ悪女として有名になる西太后である。彼女は正室ではなく、正室の東太后との共同統治となった。しかし政務を握っていたのは粛順だった。同年8月、前帝弟で実力者の恭親王と両太后が組んで辛酉政変のクーデターを起こす。

恭親王は、北京条約を結んだので列強の信頼は厚いが、国民からは「鬼子六(売国奴)」と嫌われていた。しかし外務省である総理各国事務衙門を設立し、李鴻章らを登用して、洋務運動という近代化を推進していた。だが政務を一手に握る恭親王はだんだんうとましく思えてきた。

1865年3月、そのムードを呼んだおべっか使いから恭親王が讒訴された。賄賂をとっているとかデタラメだったが、西太后は利用して恭親王の懲罰を訴えた。しかし調査をしても証拠が出て来るはずがない。そこで彼女は同治帝の朱論までつくって恭親王の懲罰をコリ押しする。

結局恭親王は身に覚えのない罪で、帝と両太后に土下座して罪を詫び、地位をはく奪された。恭親王は程なく政務に復帰するが、もはや前の熱意は戻らず、上の意向を恐れるただの廷臣となった。そしてこの事件を機に西太后の独裁政治が始まってゆくことになる。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。