ウィーン体制30-ナポレオン帰還ス

1821年に亡くなったナポレオンは、1840年12月にパリに帰還した。帰還運動はずっとあったのだが、国王ルイ・フィリップはボナパルティストの人気取りのために帰還を計画したのである。すでに子の2世は亡くなり、甥と称するルイは、ブローニュで蜂起したが全く支持されず捕らえられた。

当時トルコとエジプトが戦争し、フランスはエジプト支持で、仏首相ティエールは、ナポレオンの栄光を想起させようと思った。が、英大使のギゾーはこれに反対、セントヘレナは英領なのだ。結局国王は、強硬なティエールを罷免して、イギリス寄りのロンドン条約が締結され、戦争の危機は回避された。

セントヘレナは絶海の孤島ではなく、アフリカ周りの船が通り、亡くなるまでちょっとした観光名所だった。ナポレオンは晩年カトリックに回帰し、遺書にもそう書いてある。本気でイエスは神だと言って、お付きの者と論争したりしている。まあ死後のことを考えてのことかもしれないが。

ともかく、40年12月14日、ナポレオンの棺は、彼が計画して36年に完成した凱旋門をくぐって廃兵院に到着した。かつての兵士が参列し、皆フランスの栄光のノスタルジーに浸った。ルイ・フィリップにすれば、ナポレオンを継ぐのは自分だと言いたかった。が皆そんなことは考えていなかった。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。