ウィーン体制28-オーストリア産業革命

1837年、産業革命の象徴ともいうべき鉄道列車がウィーンに出現した。この鉄道はウィーンとチェコ国境のブジェツラフを結ぶ。帝国が列車で結ばれる、と新聞は書いた。またドナウ川にも蒸気船が浮かんだ。これによって帝国内の人口移動がすすみ、ウィーンは人口が急増した。

工業化は、ボヘミアや下オーストリア、北イタリアを中心に紡績業の機械化がすすみ、それで財をなしたブルジョアがウィーンを闊歩し、「天上界の魔法」と皮肉られた。ウィーンとグラーツに工科大学ができ、上からの経済的進歩が形づくられていく。メッテルニヒも熱心だった。

しかしそれと共に、検閲を越えて自由主義が入っていった。官僚などの教養市民は、人権の尊重、立憲主義、言論の自由を求めていく。しかしそれはフランス的革命ではなく、あくまで体制内での改革であった。実はメッテルニヒも改革を志向していたが、宮廷は受け入れなかった。

そして家内手工業の崩壊や、大土地所有の中での農村の疲弊で交通の発達した都会へどんどん人が流入してくる。そのインフラが追い付かず、ウィーンの城内の旧市街を越えて、城外の新市街には、貧民が賃貸住宅で暮らすこととなった。工場法がつくられ、児童労働が10時間に制限されるくらいの劣悪な環境である。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。