ウィーン体制25-ドイツ関税同盟

ウィーン会議でプロイセンはライン両岸を得た。この地域は物流の拠点と共に、産業革命に欠かせないルール炭田を有する。この地は、中部フランクから神聖ローマに組み込まれたが、ナポレオンによって神聖ローマが消滅して領邦国家となり、ナポレオン後に制圧したプロイセンのものとなった。

ところが従来の領土からはまたも飛び地となった。そこで1828年その間となるヘッセン=ダルムシュタット大公国と今でいうFTAのような北ドイツ関税同盟を発足させる。それに対し、ザクセンやハノーファーが中部ドイツ関税同盟、バイエルンが南ドイツ関税同盟を発足させた。

3つの関税同盟となると、もう税関そのものが邪魔になってくる。税関が襲撃される事件も起きた。そしてプロイセンは各国を切り崩し、1833年3月にドイツ関税同盟ができた。これはEUが関税同盟からできたように、経済的統一がドイツ統一の第一歩となった。

政治的なドイツ連盟の長はオーストリアである。メッテルニヒはこの関税同盟は、オーストリアを排除して、プロイセン主導のもとでまとまる「危険なもの」と皇帝に報告している。しかしもはや遅く、33年5月にはバイエルンでドイツ統一を求める集会に3万人が集まり、民衆も統一の機運が広がっていく。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。