カノッサの道7-グレゴリオ7世皇帝を破門

1075年、グレゴリウス7世は、ローマの司教会議で、皇帝顧問を務める司教5人を聖職売買の咎で破門に処した。皇帝ハインリヒ4世はこれを無視、それどころか新たにミラノなどイタリアの3司教を任命するという対決姿勢。教皇は諸侯に回状を送ると同時に、皇帝に「破門も辞さぬ」との最後通牒を送った。

若い皇帝はこの挑発にひっかかり、ヴォルムスにドイツ司教24人を集めて教皇の廃位を決議。このときの理由がマティルデとの怪しい関係だ。確かに教皇はカノッサに足しげく通い、女伯の離婚を承認、元旦那は2人の関係を公言し、暗殺されていたのだ。

皇帝は北イタリアの司教会議でも教皇廃位を決議し、「偽修道士へ」という表書きで教皇に廃位通告を送った。76年2月22日、仏伊110名の司教会議でこの手紙は読まれ、教皇の思惑通り、怒りの中で皇帝派司教全員の破門、そして皇帝ハインリヒ4世の破門、廃位が決議された。

ドイツ諸侯は待ってましたとばかり、10月トリブールで会議を開催。皇帝の破門を認め、翌2月22日までに教皇が破門を取り消さねば、新皇帝を選出すると決議した。それに合わせ、教皇は2月2日にアウグスブルクで諸侯会議を開催すると宣言。諸侯に信頼されていない皇帝の弱点を突いた鮮やかな戦略。若い皇帝はまんまと罠にかかって絶対絶命のピーンチ!

下はジョバンニ・フランチェスコ・コルネッリ作「教皇グレゴリウス7世とマティルデ」

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。