ウィーン体制22-仏六月暴動鎮圧

フランスの7月王政では1832年6月5日、早くも六月暴動が発生した。7月革命で市街戦を戦ったのは労働者達だが、最後に遺物というべき、ラファイエットやタレーランが出てきて、ルイ・フィリップが王にされた。選挙権は拡大されたものの、選挙権は0.6%やはり金持ちしか選挙権がなかった。

さらに不作で物価が高騰、またコレラが蔓延して、18402人が死亡、特に貧困層で死者が多かった。貧民の不満の上に、ボナパルティストや、王党派の不満も重なり、あちこちで暴動が起きていた。共和主義者の人権協会は、草の根的に国民の中で組織を広げていた。

6月5日、ラマルク将軍の民衆葬が行われ、将軍がイタリアやポーランドの革命を支持していたという演説が行われた。その亡命者も、その中には入っていた。赤旗が降られ、民衆が激高する中で、軍からの発砲があり、暴動が市内で広がり、参列していたラファイエットも止められなくなった。

暴動は3千人に拡大して、バリケードが築かれた。しかしその夜、4万人の正規兵が到着して軍が強化された。ルイ・フィリップは、サン=クルーからパリに戻り、公衆の面前で軍を閲兵し、蜂起の鎮圧にあったった。暴動は6月6日の夕方まで抵抗したが、最終的に鎮圧された。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。