ウィーン体制1-5カ国同盟設立

1815年11月20日、第二次パリ条約が調印され、フランス領土は1790年まで縮小され、対外債務の放棄に加え、7億フランの賠償金が課され、最大5年間20万の各国軍隊が駐留、その費用はすべてフランスもちだった。王政シンパはユルトラと呼ばれて、共和派やボナパルティストにテロを行った。

さらに8月14日に、選挙権を持つのは資産家だけという制限選挙でユルトラが勝利、ルイ18世のいう「またと見出しがたい議会」が始まり、王政復古の功労者タレーランやフーシェは結局追放された。そして第5代リシュリュー公が首相になった。彼はアントワネットの指示で早めにフランスを離れていた。

ユルトラ議会は、軍事法廷をつくるなど、どんどん過激化していき、さすがに占領軍の反発を呼び、翌16年9月に解散させられ、新たな議会は自由主義穏健派が多数を占めた。リシュリュー公は、その高潔な人格と、欧州への人脈によって、フランスの占領を早期に終わらせるよう努力する。

1818年10月1日、フランス問題でのアーヘン会議が行われた。ワーテルロー後、英露普墺による4国同盟ができており、ウィーン体制のヨーロッパ秩序を担っていた。この会議では、フランス革命の防止、欧州秩序の維持が確認され、フランスもその枠組みに同意して、新たな五国同盟ができた。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。