アフリカへ帰ったアウグスティヌスは、友達と修道会をつくり修行をした。このときの規則はアウグスティヌスの戒律と呼ばれ、後の修道院の規則のモデルの一つとなった。390年息子と友人が亡くなり、391年彼はアフリカ第二の都市ヒッポの司祭となり世間で活躍することとなった。
392年、キリスト教はローマ帝国唯一の国教となり、94年アウグスティヌスはヒッポの司教となった。当時の司教は市民からの推挙で選ばれた。市の役人は堕落し、当時の碑文に「猟、浴場、遊戯、殺りく、それが生活だった」と書かれているほど市は荒れていた。司教の推挙が最後の市民の権利だった。
アウグスティヌスは、家族のトラブルから街の喧嘩、商取引まで話をきき、調停し、食事をする間もなかった時期があるということだ。395年、最後の大帝テオドシウス1世が崩御。17歳のアルケディウスが東、10歳のホノリウスが西の皇帝となった。2人の仲は悪く、豊かなバルカン半島の領有をめぐっても揉め、バルカンが東にもっていかれたことで、西はかなり不利となった。
東では、テオドシウスの同盟者であったゴート族のアラリックが王を名乗り、トラキアを略奪した。西のヴァンダル族出身のローマの名将スティリコは、東西ローマ軍を率いて、アラリックを破るが、西に領土を奪われることを心配した、東の親衛長官が、なんとアラリックを軍務長官にしてしまった。
下は現在のイスタンブールに残るテオドシウスのオベリスク。テオドシウス皇帝の彫像が台座に刻まれている
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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