大帝コンスタンティヌスの母ヘレナ9-登場

息子コンスタンティヌスは死んでいなかった。もう一人の正帝、東のディオクレティアヌスの元で軍人として成長していた。305年、そのドンたるディオクレティアヌスが突然引退を宣言、もう一人の正帝マクシミアヌスも引退させて、第2次4頭制に変わった。そして父クロルスは西の正帝となった。東の正帝を引きついたガレリウスは息子を人質としておきたかったが、彼は身の危険を感じて脱出し、父のもとに向かう。

ところが翌年7月、クロルスが病死してしまった。とき息子31歳、ブリタニアに居た。このとき、父の軍からはコンスタンティヌスを正帝に推す声があがり、彼は承知、東の正帝ガレリウスに承認するよう使者を出した。しかし序列からいくと西の副帝が昇格すべきである。ガレリウスがそう通告すると、彼は承知。彼は西の副帝となり、父の後継者としての立場を確立したのである。

この機敏な行動は非常に当を得たものであった。実際父の正妻には6人の子供が居る。もし彼が宣言しなければ、彼は地位を奪われていたかもしれない。幼い時に苦労した男は、情に溺れず、人間を知って冷静に行動する男になることがある、彼はそのタイプだったろう。

しかしその冷厳なコンスタンティヌスが、母を自分の許に呼び寄せるのである。そして父の妻、自分の実母としての権利を返し、現在ドイツの古都トリーアに立派な邸宅を与えた。後年、この邸宅はトリーア大聖堂となる。下賤の生まれの母を明らかにするのは得策とはいい難い。彼は唯の冷厳な男ではなさそうである。ともあれ息子と再会できたヘレナは大喜びだったろう。

下はイギリスは皇帝宣言をしたヨークにあるコンスタンティヌス像

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。