大帝コンスタンティヌスの母ヘレナ8-容認

「私のために命を失う者はかえってこれを得る」というキリストの言葉があるが、皇帝はこれだけ殉教をする宗教だと知っていただろうか?イエスキリストは殉教とはいわないが、その後使徒ステパノが石打で殉教してから、続々と殉教している。賢帝マルクス・アウレリウス時代にも聖ポリカルポが殉教しているが、彼は火刑にあいながらも「表はもう焼けたから裏にしてくれ」とかジョークを飛ばして、その見事な死に様に迫害を止めたという。

ディオクレティアヌスの大迫害は、教会を打ち壊し、聖職者を逮捕して改宗を迫った。殉教者もいれば、改宗に応じた者も居る。一般の信徒も、ローマ神殿への礼拝は強制され、従った者も居るが、殉教した者もいる。またテロを行った者もいる。しかしキリスト教徒を自分からは明らかにしないが、ローマの神殿にも行かない、という者も多く居たようだ。

大迫害というように、キリスト教に大打撃をもたらしたが、一方では教徒だけでなくブーイングもあったようだ。「やり過ぎ」というわけである。実際ローマ市民にしてからが、そんなに神殿イベントに熱心だったわけでもない。やはり神殿は一部のローマ貴族のものである。ローマ市民といえど、もういろんな民族が混じっている時代だった。

結局どんなに迫害をしても、キリスト教徒が神殿に行くことはなかった。311年、第2期4頭制のもとで、迫害を引き継いだ皇帝ガレリウスが、他の正副帝と一緒に、キリスト教徒への寛容令を出した。教徒は教会で皇帝の安寧を祈ってくれればよいということになった。

下は寛容令が出たブルガリアのソフィア教会にある記念碑

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。