大帝コンスタンティヌスの母ヘレナ10-割拠

コンスタンティヌスの行動はいわゆる「ぬけがけ」であって、決してそれで収まらなかった。その3カ月後の306年10月28日、ローマで前西帝マクシミアヌスの息子、マクセンティウスが皇帝を宣言したのだ。彼は本来マクシミアヌス引退のときに副帝あたりになってもおかしくなかったので、コンスタンティヌスの決起が通るのなら、ということで自分もやったわけだ。

そしてなんとなんと父の前西帝マクシミアヌスまで息子の副帝として復帰した。ローマは首都とはいえ、ディオクレティアヌス以来、西帝の一都市となってしまった。ローマはこれを応援したのである。そしてこれによって4人の正副帝のテリトリーシステムは崩壊、6人がそれぞれ天下を狙って争う乱世となったのである。

西の正帝セヴェルスは、当然マクシミアヌスを討伐しなければならなかったが、この軍たるは元マクシミアヌスの軍である。やむを得ず討伐に向かったところ、ローマ軍を率いて来るのは昔の司令官のマクシミアヌス。戦闘になるわけがない。西の正帝は307年2月、ローマに護送されて、自死を強いられた、日本でいえば切腹させられたわけね。

次に討伐に向かったのは、東の正帝ガレリウスだった。彼はセヴェルス敗北の轍は踏まずと、自分の精鋭を率いて来たが、今度は得体のしれぬ軍を連れてきたということで、イタリアの都市が門を開いてくれない。これでは補給も何もおぼつかないので、戦闘もせず撤退してしまった。しょうがなく前正帝で引退したドン、ディオクレティアヌスを入れて、話し合い決着が計られることとなった。

下は帝国のテリトリー図。左からコンスタンティウス、マクセンティウス、ガレリウス(死後リキニウス)、マクシミヌス・ダイア

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。