恐怖政治8-アントワネット処刑

マリー・アントワネットが処刑されたのは1793年10月16日で、国王より1年以上遅い。そもそも国王が失脚したからといって王妃も処刑されるわけではない。王妃殺しで有名なヘンリー8世は自身が命令した。メアリ・スチュアートも王妃ではなく、女王継承権があったためだ。

アントワネット救出計画もありカーネーションに隠された手紙が送られたが、彼女は一人では嫌と拒否した。もちろんフェルゼン様は武力突破を提案した。墺国が身代金を出して引き取る案もあったが、どちらも積極的でなく、そもそも革命政府は外交とかを考えておらず立ち消えになった。

結局革命裁判所にとって、アントワネットの価値は負けかけていた国威の再高揚だった。ということで彼女には近親相姦の罪まで着せられた。アン・ブーリンもこの罪があったが、処刑の口実にしやすいのだろう。革命政府は貞淑な女性の理想を広めていた。

最期の時期、アントワネットは非常に敬虔な女性だった。若い頃贅沢なファッションリーダーになったが、それも王家のためだと思っていたのも事実である。罪を女性に被せるのはいつの時代でもあることのようだ。11月8日にはジロンド派の女王ロラン夫人が処刑され「自由よ、汝の名でいかに多くの罪が犯されたことか」という有名な言葉を残した。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。