仏王処刑23-国王裁判死刑へ

しかし結局ルイ16世、このときはもうルイ・カペーなのだが、の裁判は行われることになった。マラーはこの裁判は人民の教育のために、そして、国内に残る王党派に恐怖を与えるために必要だと主張したのだ。裁くのは国民公会である。モンテスキューを生んだフランスに三権分立はなかった。

チュイルリー宮の鉄の扉からルイが国外の王党派と陰謀を企んでいたという手紙が発見され、またミラボーが国王から金を受け取っていたことがバレ、ミラボーの遺体は退去させられる。革命初期の英雄達はさんざんである。しかしその啓蒙主義の生き残りマルゼルブ他2人はルイの弁護を名乗り出た。

1782年12月11日より、ルイの本審が始まった。26日には弁護士を交えての弁護が行われ、起訴事実があいまいであり、ルイの行動は、あくまで暴動に対する防衛的行動だとした。最後に弁護人ド=セーズは、「歴史がどのような審判を下すのか考えてみるがよい」と述べた。

フランス各地では不穏な動きがあり、諸国の動向も懸念された。しかし翌83年1月4日に、第1回評決が行われた。マラーの提案で、評決は一人一人出てきて口頭で、投票することになった。そりゃまるわかりだ。それでも1月16日には刑の宣告投票では、721名のうち死刑賛成は387名のきわどい過半数だった。

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。