1758年4月、イギリスがとうとう9千人をハノーファーに派遣した。イギリス兵が大陸の土を踏むのは、ヘンリー8世以来である。ともかくイギリスの支援を得て、ハノーファーは、フランスをライン川の西に追い戻してしまう。そしてフリードリヒ2世は対ロシアで東へ。
8月25日にツォンドルフでプロイセン軍3万5千とロシア軍4万3千が大激突。双方とも万を越える被害を出したが、またもや兵站の理由でロシアが撤退したので、大王はすかさず勝利を宣言してまた欧州中に宣伝した。しかし「ロシア人を殺すのは味方に引き入れるより簡単だ」と婉曲ながら相手のしぶとさを認めている。
しかし10月、今度はオーストリアのダウン将軍が、ホッホキルキでプロイセン軍に霧の中の奇襲に成功、この勝利は女帝マリアの誕生日に伝えられ、彼女の一家を喜ばせた。しかしザクセン攻撃には失敗し、ドレスデンは、なおもプロイセンの占領下にあった。
精彩を欠くフランスでは、宰相のベルニが早期講和を唱えた。しかし戦争の実質責任者のポンパドゥール夫人はそんなことはできない。ベルニを更迭して、またも自分の子飼いの主戦派のショワズールを外務大臣にして、戦争を続行させた。彼はオーストリア派でアントワネットの婚儀も行うのだ。
下はツォンドルフの戦い
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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