大王対女帝9-マリア・テレジア反撃

シュレージエンはプロテスタントが多く、プロイセン軍は歓迎された。フリードリヒ2世は、1741年2月の手紙に書く「私が戦争を好むのは名声を得るためだ」まあ確かにマキャベリはそんなことは書いていない。この侵攻は真冬だから成功し、オーストリアの反撃は春になった。

両軍は4月10日にモルヴィッツ近くで会戦、この戦いは、オーストリア軍騎兵の突撃に悩まされ、普王は、戦線離脱を余儀なくされるが、その後、普軍歩兵の一斉射撃が墺軍騎兵の足を止めた。墺軍は、仲間の死体を乗り越えて進んでくる普軍に恐れをなし、ついに撤退した。

戦闘そのものは、プロイセンの辛勝だったが、欧州各国はここで初めてプロイセンの名前を覚えたのである。ここでフランスはバイエルンと共に参戦し、両軍は8月15日にウィーン進軍を開始した。スペインも北イタリアのオーストリア領に攻撃を開始する。

オーストリアでは、マリア・テレジアに3月13日待望の男子ヨーゼフが誕生。そして彼女はハンガリーに行く。6月25日にハンガリー女王として即位し、議会を招集。そこで息子を抱き「この子を抱いた私を救えるのはあなたがただけです」と訴えた。その結果、勇猛なハンガリーが味方になり、帝国一体の戦時体制ができる。

下はハンガリーに乗り込んだマリア・テレジア

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。