日本宣教42-大阪の陣のキリシタン明石

1614年には大阪冬の陣が勃発している。方広寺鐘銘事件を考えると、12年からのキリシタン禁教は、キリシタンに寛容な大名を徳川家に服従させるためだったとも考えられる。そして黒田家に居た元宇喜多秀家家臣でキリシタンのジョアン明石掃部が追放される。

明石掃部は、西軍宇喜多家の家老となり、関ヶ原では前哨戦の杭瀬川の戦いに勝利し、本戦では先鋒を務め、撤退では殿りとなった。このとき黒田長政と会い、自決できないので首をハネてくれと頼んだという。長政は家康に助命を願い、明石は黒田家で如水らとキリスト教を広めたそうだ。

冬の陣ではキリスト教武士2千人を率いて入城。この中には高山家家来も大勢居たという。真田幸村らと共に牢人5人衆と呼ばれた。真田丸の戦いでは側面から徳川軍を敗北させた。翌年夏の陣では、実は精鋭3百人と共に、明石が家康陣に突っ込む計画だったらしい。

明石は、本多忠政らと激戦を行い、大阪城に撤退した後不明となり、家康は戦後「明石狩」を行った。城内に居た娘明石レジーナは捕えられ、家康の前に引き出されたが、その態度に感じ入り、北政所を紹介したが、彼女は「貧しい所に身を置かねば神の仕事はできません」と断ったという。

真田丸に出てきた明石然登もっとあっただろうけど

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キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。