1606年、当代一の朱子学者林羅山はキリスト教に招かれて論争をした、その相手が不干斎ハビアンだった。これは羅山側の記録しかないが、東西思想の対決としてスリリングなものとなっている。のっけから羅山は壁の絵を見て誰の絵か問うたらしい、恐らく偶像問題を突いたのだろう。
さらに羅山は、地球儀にかみついた。曰く上下はどうなるのだ、と。世界が球体であるのは、世界一周をした者が何人も居る西洋では常識である。信長は地球が丸いことを理解したとのことだが、羅山は悪いスコラ並みの頭の固さである。しかし上下問題は万有引力でなければ解決しない。
論争は宇宙の創造において核心に入る。朱子学では宇宙の始原は「理」すなわちことわり=宇宙法則である。しかしキリスト教は神、つまり体=実体である。体の前に理があるのか、理をつくった体があるのか、お互いに例を出して論じあったが水掛け論となった。まあヨハネ福音書では「はじめに言葉ありき」と、ギリシア哲学を取り入れて書いているのだが。
この論争では、羅山はキリスト教哲学を理解できず、ハビアンもそれほどキリスト教哲学を理解していなかった。神学大全などを持っていれば、羅山は狂喜したかもしれない。しかし日本で東西がっぷり四つな論争ができたのである。
下は朱子学の世界観
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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