日本宣教21-李舜臣の勝利、明参戦

小西行長は必死に朝鮮を攻めた。実は彼は早期講和派だった。ともかく緒戦で日本軍の実力を見せつけ、朝鮮王と講和してしまう作戦。第二陣の加藤が来ればこの作戦はフイになる。そのための猛攻だった。平壌まで王を追い詰め、会見に持っていくつもりが、王は明に逃げ込んでしまったのだ。

釜山から平壌まで、兵站線は伸び切っている。そして明に攻め入れば大ごとになる。小西は平壌に留まらざるを得ない。日本軍は「八道国制」を決めて各地の制圧にあたった。だが制圧だけで民は治められない。フロイスが言うように「敵方の地理や言語も全く知らない」のである。

毛利輝元は「御人数にてはこの国治めは、なかなか人が有るまじく候」と太閤に手紙を書いている。そして1592年5月より李舜臣率いる水軍が日本水軍を打ち破り、制海権を取られると、補給が釜山からの陸上ルートとなり、各地でゲリラが活発化し、日本軍は消耗させられることとなった。

行長は明参戦の可能性を否定していたが、遂に明は参戦。1593年1月第三次平壌の戦いで、火砲戦に明が勝利した。明・朝鮮軍は開城に入城したが、碧蹄館の戦いでは日本軍が勝利。戦況は膠着し、双方とも講和を模索するようになった。日本側代表は小西そして明側が沈 惟敬である。

下は李舜臣の復元された亀甲船

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。