我ここに立つ26-カルヴァンの独裁政治

1541年ベルン派は失脚し、カルヴァンは再びジュネーブに戻ることを要請された。市に戻った彼は、さっそく教会規則をつくった。教会規則といっても教会のルールではなく、市民生活の規則である。最高権威の長老会は、教皇派や自由主義者の書を取り締り、告発することができた。

奢侈や演劇は禁止、ダンスしてもカルヴァンへの風刺をしても告発された。まるでどこかの独裁政治である。プロテスタントと自由主義は直接の関係はなく、アメリカ原理主義のように頑なになることがある。子供から大人まで日曜学校が義務となりカルヴァン派の教義が教育された。このことで、ジュネーブはカルヴァン派の拠点となって近隣に広がることとなる。

フランスではフランソワ1世が、プロテスタント国のデンマークやノルウェーと同盟を結び、再びスレイマンと結び、今度は合同艦隊までつくって、マルセイユ沖までデモンストレーションし、この合同軍は当時帝国領であったニースを占領する。

ハンガリーでは、モルダヴィアの領主亡きあと、皇弟フェルディナンドが領主権を主張して、オーストリア軍を侵攻させ、オスマンとの戦争となったが、オスマンはこれに勝ち、ハンガリーの大部分をものにしてしまった。しかしそのころカールはアルジェリア遠征をしていた。

下はジュネーブのカルヴァン

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キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民

キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。