カンブレーの講和会議にはトマス・モアが行かされた。ウルジーは離婚裁判でかかりきりだったし、何より皇帝と仏王が仲良くなるはずがない、と言ってきたのである。さらに教皇クレメンス7世が復活した以上、ウルジーが教皇代理になることなどありえなかった。失脚が迫っているのは明らかだった。
モアは会議で、どちら側にも味方せずうまく振る舞ったと称賛された。そのおかげで英国は13年間対外戦争にかかわらず、国教会ができたのはモアにとって皮肉といえるかもしれない。そしてモアが帰国すると、ウルジーはすべての役職を剥奪、財産が没収され。モアが大法官となった。
一方翌1530年2月24日、ボローニャで皇帝カール5世の戴冠式が盛大に行われた。それまでに皇帝と教皇はボローニャ入りして話しており、ローマでの出来事を水に流しすっかり和解していた。そしてこの日はカール30歳の誕生日だった。フランスと講和し、教皇から戴冠を受けたことは一層自分をヨーロッパの守り手として自覚されただろう。
しかし教皇戴冠は、これが歴史の中でこれが最後の儀式となった。ヨーロッパのキリスト教の分裂が固定化し、教皇の権威が落ちたこれ以後、教皇戴冠には何の意味もなくなり、皇帝はアーヘンで戴冠を行うことになるのである。
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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