1506年に修道士となったルターは、1512年にヴィッテンベルク大学の教授となった。ルターは戒律の厳しい聖アウグスティノ修道院に入り、その戒律を非のうちどころがないほど守っていたが、それでも自分の不安はとれなかった。ルターが修道院に入ったのも雷に打たれる不安からであり、初ミサを行うとき、巨大な神の前に無力な自分が立っている気になったという。
きっと現代なら「鬱病ですよ」と診断されて病院通いになっていたかもしれない。しかしルターは聖書を研究して自分の不安を晴らそうとした。実際あの最もキリストに近付いたとされる聖フランチェスコでさえ、聖痕を受けるまで「自分は全然ダメ」と思っていた。大聖人で自信を持ってる人など一人もなかろう。
そしてルターは、全能の神の前で、罪びとである自分を認め、神にすべてを任せる信仰を持つとき、神が人間を義としてくれる、と思いたった。このときルターには「天国に入っていった気がした」という。
教会の考えでは、聖職者は罪を許す権能を持ち、教会の定める善行をすると、罪が軽くなる、と定められていた。ルターの「義認論」は、人間は自ら神の前に立たねばならす、仲介者を否定した。教会のいう「善行」とは、献金や免罪符を買うことも含まれていた。ルターは深い部分で対決せざるをえなくなる。
下はルターが自分の信仰に目覚めた塔
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
0コメント