ヴァスコ・ダ・ガマの帰国後、ポルトガル王マヌエル1世は、先にインドに到達したと自慢の手紙を送った。スペイン両王にとってはショックであった、やはりコロンブスが行ったのはアジアではなかったのだ。コロンブスの別の総督を行かせたのもこの手紙のせいであった。
ポルトガルは、大陸諸国のイタリア戦争に関与できるわけもなく、ひたすら海をめざす。1500年3月8日、名門カブラルを提督として、13隻の船団がリスボンを出発した。途中、かなり迂回したのかブラジルを発見、これによってブラジルはポルトガルの植民地となる。
喜望峰の近くでは大嵐にみまわれ、4隻が沈没、ここを見つけたバルトロメウ・ディアスもその海に眠ることとなった。カリカットに到着したのは9月、今度はたくさんの土産物を差し出し、王との交渉は順調にすすんだ。ところが、港ではお得意のイスラム商人を大事にして、苛立ったカブラルは船を拿捕して、イスラムも乗組員を襲撃、カブラルは港を砲撃して出航した。
12月24日、艦隊はコチンに到着。コチンの王とは友好を交わした。コチンは以後、ポルトガルの重要な拠点となっていく。カブラルがイスラム商人と諍ったことは、ポルトガルで拡大解釈され、イスラム排除のための砲艦外交を行うことになっていくのだ。
下はポルトガル時代のコチンの地図
キリスト教で読む西洋史ー聖女・悪女・聖人・皇帝・市民
キリスト教なしに西洋史は読めないというほど深く痕跡を残しています。そういうキリスト教を念頭に置きながら、西洋史を読んでいこうと思います。もちろん批判的観点もおおいにアリ。 ローマ時代コンスタンティヌスから始まる長い物語、お楽しみいただければ幸いです。
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